情報の海に生命は生まれる

攻殻機動隊


1995/83分/バンダイビジュアル

士郎正宗原作のコミックを、押井守が監督したアニメーション映画です。

西暦2029年。ネットは世界を覆い、人間の限界は大きく広がったが、 まだ国や民族はなくなっていないような近未来。
草薙素子は全身を機械化したサイボーグ。
公安9課という特殊部隊に所属している。
最近、自分と言う存在に疑問を持ち始めている。 自分の体はほとんどが機械化され、オリジナルの自分はごくわずか。 自分と言う存在を証明するものは、一体何なのか。 自分自身で見たこともない自分の脳を信じることが、 彼女には次第にあやうくなってきていた。

ある時、公安9課に一人のサイボーグが拘束される。
その人格は、有名なクラッカー「人形使い」である、 と言って引渡しを求めてくる外事6課。
だが、引渡しの最中、人形使いは9課に保護を求める。 自分は人間ではないことを宣言し、その上で一生命体として亡命を希望する。
「わたしは、情報の海で発生した生命体だ…」
6課は何故か、汚い手を使って人形使いを連れ去る。
6課との命がけの攻防の末、人形使いを手に入れた素子は、 彼から思いがけぬ申し出を受ける…

テーマ的には、士郎正宗のコミックのテーマを、 押井守的に掘り下げて表に出してきた感じがあります。
士郎正宗のコミックは、画面内、 そしてコマの外のあまりに過剰な情報と比較すると、 登場人物たちは寡黙で、その行動によって何かを語らせようとします。
対して、押井守は、登場人物が誰も彼も饒舌であり、 その言葉によって紡がれる世界を見せようとします。
そして、主人公の性格設定にも違いが見られます。
士郎版の素子は、戦いのプロとして生きることには納得し、 生への執着を決して忘れることはありません。 その戦いの中で、自分と言う存在に疑問は持つものの、 生存本能にしたがって、極めてドライに人形使いに向かい合います。
対して、押井版の素子は、最初から何か諦念を抱いた女性として描かれています。 かなりウエットに、情念に捕らわれた女性として行動し、 クライマックスでは、自らの命を危険に晒して、 明らかに勝ち目のない行動に出ます。
このような意味で、コミックと映画とは明らかに違った作品であり、 映画の方は、押井守の作品に染められきっているのです。

公開時には、大変なコマーシャルを行なったので、 アニメファンでない人でも、見に来た人が多かったようです。
映画館でチラチラと聞こえる、そんな人たちの感想に耳を傾けると、 やはり「重かった」という意見が多数でした。
テーマは重く、難解であり、画面もそれにふさわしい密度を持っています。 このような意見は当然だと思いましたが、 実はファンにとってはそれほどでもなかったのです。
コミック版をしっかりと読み込んでいた者にとって、 この映画で語られる部分はそのエッセンスであり、 むしろ一般向けに噛み砕かれた、わかりやすい映画に思われるのです。
これは押井守の饒舌さが良い方向に作用した結果と思われます。
ファンは、むしろ食い足りない印象を持った人が多かったようです。
クライマックスをもっと突っ込んで欲しい、 いやにさっぱりした印象を受ける、そんな意見が私の周りでは聞かれました。
知らない人には良くわからなく、 知っている人には面白いけれどややもの足りない、 そんな映画となったようです。

技術的な見方では、ほとんどアニメーションの限界のような作品です。
美しい背景美術、空間の質感まであらわになる画面、 アニメの弱点、奥行き感覚をかなりの点で克服したCG、 確かに彼のアニメーション技術の集大成のような作品です。
画面作りを見るだけでも、わかる人には楽しめるものとなっています。

いろいろ書きましたが、今の日本のアニメーションの世界を知ろうとするならば、 外すことはできない作品であることには間違いありません。
少なくとも、レンタルビデオで借りて後悔するようなものではないはずです。
一度御覧下さい。

関連書籍

攻殻機動隊(コミック) 講談社 士郎正宗
攻殻機動隊フィルムブック 講談社
攻殻機動隊小説版 BURNING CITY灼熱の都市 講談社 遠藤明範
攻殻機動隊絵コンテ集 キネマ旬報社
THE ANALYSIS OF[攻殻機動隊] 講談社
ロマンアルバム攻殻機動隊 PERSONA 押井守の世界 徳間書店

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